Untitled(untitled)

切れ端、描かれたもの、オブジェクト

オブジェクト ha 障害物 ni naru koto ga ari, 障害物 ha 命令 suru.
命令 niha 服従 seyo.
以上、引用と編集。

思考は、(中略)包括的で規則的な方法で、所作の領域〔実践的領野〕にある力と障害の因果関係を計測し、そして包括的で規則的な方法で社会秩序を規定する規律と服従の関係を記録すること、こうしたことができるように指令しなければならない。(アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』 p.40)

インスタレーション wo 環境 to shite kangaete miru.

インストール sareta もの ha 環境 toha 言 enai。
vs
soko ni aru もの ha 環境 da to 言 eru。

nara インスタレーションビュー to アーカイブ ha donoyouni kotonatteirunoka?
言い方が違えば差異があり、同じ意味の異なる名前はないものとして考えてみる。
インスタレーション wo 記述 suru 方法 ha donoyounishite 用意 sarete iru bekika?
空間が叙述されることは世界に服従すること。鑑賞は服従

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引用。

いわゆる自己知と呼ばれるものは、伝統的に優位であると想定されるものだが、それは〔精神分析では〕まったく転倒され、個人の満足の道具であるのではなく、むしろ、障害物になるのである。快楽と苦痛は、功利主義者の計算の倫理に反して、計算機を無効にしてしまうのである。(レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス『親密性』p.153)

転倒
道具 土偶
障害物
快楽と苦痛
計算
倫理
無効
つづくテクストへ。

衝撃力や解体力をもち、けっして修復されえないような崩壊とは、ベルサーニの表現でいえば自我の薄暗いたくらみそのものなのである。そのなかで、より真剣に探し求められる満足とは、何かを達成することよりも、むしろ徹底して解体することなのである。それはマゾヒズム的な能力にほかならない。(レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス『親密性』p.154)

      マゾヒズム的な能力

作品が鑑賞者を服従させ、その服従が鑑賞者へ「思考せよ」と命じる時
というよりは
鑑賞者が作品に接触し、その接触によって鑑賞者が伝達されたと感覚する時、鑑賞者は思考を命じられている
と言った方が正確 だろう
記述はサディズム的な能力か、マゾヒズム的な能力か
作家がマゾヒストである時、鑑賞者はどのような器官になるのか
場所の性質は作家が所有するものではない。むしろそれは観客の側へ完全に委譲されているはずだ。
鑑賞者→観客
観客は功利主義的である。なにせ彼らは文字通り"客”であり、客はある帰結(オチ)を作品へ要求する。客は招かれているし、作品は客を招くし、招かれた客は客人として丁重に扱われ、作品の帰結(オチ)は客への対価として与えられる。作品にオチがあるという事態はこのように要求されている。オチとは功利主義者への見返りであり、少なからずオチを見出すということは思考の主従関係が反転され、観客が作品を従えるのと同じことだ。ここで、オチ、すなわち観客に与えられる対価は文字通り作品への復讐の道具として利用される。作品にオチがあるべきだ(=完結した物語であるべきだ)という言説は、観客が功利主義者であるという前提の上で成立している。そしてこの前提は、観客は作品に対して反旗を翻す余地が与えられているべきだ、という倫理であるとも言えるだろう。
記述はサディズム的な能力か、マゾヒズム的な能力か
サディズムとしての記述/マゾヒズムとしての記述 の両面を考えることは可能だと思う
思考がオブジェクトによって規定され、その命令に対して服従するという関係であるという時、それ自体は単純な論理では(と前置きした上で)マゾヒズム的な欲望に分類されるけれども、それに対してそれを思考するのではなくて書く、記述へと変換させることには欲望の反転が発生していると思う。書くことは切れ目をこの物質にいれることで、やっぱり それは単純な論理では(と前置きした上で)サディズム的な欲望に分類される。その時、「記述」はやはりサディズム的である。
記述がサディズム的であることができるのは、復讐が可能だとわかっているからだ。
逆に、記述がマゾヒズム的であることができるのは、復讐がいつになってもできずにいることが快楽であるからだ。
(これは本当に単細胞的な話ではあるのだが…)


作家がマゾヒストである時、そしてそれがある作為として提出される時、観客は招かれていない。招かれていないから、それは勝手に見られるべきだし、勝手にやめられるべきだ。


この記述を!

いつまでも無効


観客というサディストが、マゾヒストへ転換する|霧がかった筆跡|遅延したままの招待状|マゾな|部屋|削除|秘密

必要なのは、観客の自己知とそれによる領有を転倒させることだ。そうでないかぎり、作品は道具的でありつづけることになる。

作品が完結しないのは、ずっとあなたの気をひきつづけたいからだ。そして、振る時はあなたから振ってほしいと思っている。

また引用。

関心をひきつづけるのは「わたしとセックスしたいのですか」という問いである。すべてはその応答にひきつづくのだ。性的なものが、何かの断定や強化や征服などであるというよりも、自己を失うこととしてひきたてられるならば、セックスへの強迫とは、ある種の愛をともなった強迫になるのである。(レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス『親密性』p.159)

わたしとセックスしたいのですか?

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あなたとセックスしたいのですが。

また着地点がわからなくなった。
その転倒が作家にとって快楽である時、観客は何を見ていて、そこには何が展示されているのか。
引用を挟みます。

文学それ自体とは、言語の内部に穿たれた距離であり、たえず踏破されるものの、実際は決して踏み越えられない距離です。つまり文学とは、自分自身の上で揺らぐ一種の言語であり、その場でなされる一種の振動なのです。(ミシェル・フーコーフーコー文学講義——大いなる異邦のもの』p.99)

また引用。作品を制作中のメモから。

そして、僕がヘゲモニー的な所有者とならないようにするために、この作品をつくっている。しかし、それは君と僕が不幸であり続ける寸止め的状況が、絶え間なく更新され続けていることを示すことにもなっている。だからこそ僕らはとりあえずの幸せをとりあえずのものとして受けとり、そして成就することのない幸福というある種のヘゲモニー的なフィクションの稜線を踏みしめながら踏破する。僕らは永遠であり、そして運命は自滅的な時間としてではなくて、自傷的な永遠(無時間性)として、この世界にのさばっている。(2023年10月27日)

外記される運命と文学は似ている。
永遠と永続性は異なっているという話をナンシーはしていたはずだ。大雑把にまとめると、永遠とは時間とは全く関係がないものだ、ということを話していた。ずっとこの状態が継続していくことの名前は永遠ではなく、永続性、という文字通りの言葉になっている。永遠は、それとは全く関係がない。
関係がないものを展示することはできない。展示するとは、現に観客が関係しているということであり、関係していないものは展示されていない。展示されることがない、なぜならそれは関係がないのだから。展示されるものは常に関係がある。オブジェクトとして、あるいは環境として、あるいは世界として関係があるものだ。関係がないものが関係があるものとして展示される時、それは関係があるものだ。

展示されているものは、関係している。
文学が「自分自身の上で揺らぐ」とき、その振動はどのようにして伝達されることができるか?
アイスクリーム
無視することと全く知らないことは違う。
関係していないと言い切れるのは、作品が展示される前だし、観客が入場する前だ。その時、この会場は白い。
そもそも、振動は伝達されるものではない。振動は伝達そのものであり、振動があるとき伝達されるものがある。伝達されるものはこの時なんでもよい。振動がただある時、そこにはただの伝達が振動としてある。
伝えたいことがなくても、伝えることはできる。それが文学の役目だと言える。

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恋愛から脱する方法は無視ではなく、見ないこと、放たれる関係に本当に参加しないことに尽きる。無視は参加のひとつの方法だからね。

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ツイートから引用。

全く「展示見てくれてありがとうございました」と言う気にならないのでびっくりしてる。俺は何かを展示して人に見せたのか?(非公開アカウント、2023年12月16日のツイート)

マゾヒズムサディズムと文学の関係を考えるには、やはり『フーコー文学講義』を読むのが一番よいような気がしますね
作品を物質ではなくてその物質に対する観客の経験に、完全に託すということをやりたかったんですね
その時観客は観客としての資格を失うんですよ 観客は作家になる。

孫引になるので引用としては引かないが、ニック・ランドの『絶滅への渇望』の序はバタイユの引用から始まる。

神ではなく、
ただ
不可能なものだけが
存在する

というものだ。この一文は明らかにおかしい。不可能なものなら存在すら可能ではないはずで、「不可能なものだけが存在する」という言葉には矛盾がある。存在することが不可能なことであるという場合だけを除いて

展覧会に参加していた。
参加した展覧会には名前が書いてあり、展示マップには、作者の名前とその作品の場所が書かれていた。

実はこれはまずい事態だった。展示マップにその場所が記載されているということは、この作品がこの展覧会をその存在の基盤とすることになるからだ。「共同体は確固とした存在基盤を持つべきではない」という『否認された共同体』の中でのブランショに対する記述に忠実になるならば、この作品はあくまでこの展覧会に偶然置かれたものである必要があったのだ。作品は展覧会に対して、絶対的な依存をするべきではなかった。もし、展覧会に対する全ての拒否が行われていたならば、この作品はインスタレーション作品という領域からまた一つ逸脱したものになっただろう。

www.etymonline.com

実はこのことが作品にとって最も重要なことで(どのことかは想像に任せるが)、それは作品が異物であることを防ぐのだ(その意味でアンデパンダン展は全てのものが統率されていて、異物になるものがない、全体的な展覧会であると言うことができるだろう)。この、展示されている場所が地図に記載されていることによって作品はそこから広げられる。ものが広がってゆくためには、広がっていくための場所が必要。あんスタで言えば、あの画面上部の謎だ。作品はフルコンせよと言ってくるし、フルコンする能力がこちらにない場合、記述に成功することもあれば失敗することもあるわけ。記述はオブジェクト(障害物)をこの接触に応じて捕捉し直すことによっても可能だからね。←あまりにも無理があるぜ

再びツイートから引用。

成果展のハンドアウト、なんで作品の名前と場所じゃなくて作家の名前と場所を紐づけたんだろうということが引っかかってる(公開アカウント、2023年12月17日)

だから、このマップは間違ってるし、でも成功している(なにせ僕の場所ではないところにも作品は設置されていたのだから)(でも失敗もしている、なぜなら僕の場所だと記されていたところには唯一キャプションがあったのだから)
作品が「見せられる」とき、「見せる」人が必要で 作家ね
でも僕は「見せる」ことより「見られる」ことの方がいいと思っているから(なんでだろう)、あまり「見せる」みたいな意識が働くことはなくて、このテクストも公開設定をしているのは紛れもなく僕なんですが、そんなことよりあなた方に見られている(かも)という事実の方が重く、これはとても不快で、それはもう大変なことですよ…!
僕が「作品」だと思えるものは、場所、と言える。場所は人を乗せ、人に見られ、常に関係なく姦淫し、穴が開けられる。この穴が作品としてある。
展示を見てくれてありがとうございました、と言えないのは、穴は勝手に見られているだけで見せていない、ということに僕がしたいからだ。そうでなきゃ困る!!!!

穴は覗かれる。穴は縁取られる。穴は挿れられる。穴は語られる。穴は穴としてある。穴は物質ではない。穴は語らせ続けるものだ。人間は穴に服従する。もし、その服従から脱することを望むのであれば、その穴の中へその身を投げるしかない!!!!!!!!!!!!

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