Untitled(untitled)

切れ端、描かれたもの、オブジェクト

白状・声・判断

何かをすることが表現だと考えてみる、と昨年の終わり頃に呟いた。文字通りのことでそれ以上の意味はない。
ある全体が別の全体へ推移する*1ことを防ぐ必要がある、とも言った。そして、それと同時に作品の門は開けられているべきだとも思っていた。それが私が作品というものに対して下すことのできる最低限の倫理的な判断だった。

美学が感性の学であり、私たちの日常の身体行為を司り、その感性を支配する限りにおいて、必然的に政治性を有しているのだとしたら、芸術と政治を異なる二つの領域として扱うこと自体を乗り越える必要があるだろう。芸術には本来的に政治が含まれている。*2

私は今このテキストを書いている時点でどのようにして制作や作家としての立場や行動に対して判断するのか、言葉として決めていない。だからこのテキストはきっと長くなる。読むも読まないもみんなの自由であり判断だ。私はそれを尊重する。そしてこのテキストが長く、そして方向を定めずに書かれるのは全ての過程をみんなに明かすためだ。ここには全ての判断や葛藤が書かれるし、このテキストは判断や葛藤自体となる。そして、この曖昧な状態から出発することは、この社会空間の作家としての権利だと思う。

私たちはスマートフォンの画面から、正確に言うとSNSのプラットフォーム上からジェノサイドの様子を窺うことができる。「パレスチナ」とTwitterで検索すれば現地の状況が把握でき、24000人以上の人間が(人間の形をした動物として)殺され、今日も300人以上の人間が殺される状況が続いている*3。そして先日行われた南アフリカによる国際司法裁判所への提訴と南アフリカイスラエル両国の弁論の内容を鑑みても、現に市民が殺戮に直面している状況を見ても、イスラエル軍の作戦はイスラエル側の主張する「自衛」ではなくジェノサイド(民族浄化*4であると判断することができる。
私はジェノサイドが民族や特定の集団に対する差別の極端な形であると考えている。差別的な言動は実際に人を傷つけ殺すこともあるので、差別的な言動が殺人の実行でないと断言することはできない。言葉がある存在を抹消するように働く力を持ったものであることは認識しておくべきだ。しかし、差別が実力行使として行われることがこのジェノサイドであるという推測は、単純ではあるが現状のジェノサイドの構図を見ている限り可能だろう。ジェノサイドと差別的な思想の共犯性は否定できない。

人間なるものはひとつの規範的な約束事である。そのこと自体は悪いことではないが、ただそれが人間を高度に統御的なものにし、またそれゆえに排除や差別の実践に加担するものにしている。人間的規範〔norm〕は、正常性〔normality〕、常態性〔normalcy〕、規範性〔normativity〕を意味するのである。*5

「人間」は「人間ではない存在」を作り出す規範性として働く原理であるということがここでは指摘されている。そして、パレスチナ人に対するジェノサイドもこのことと無関係ではない。彼らはイスラエル軍、およびシオニズムイデオロギーによって「人間ではない」とされた上で攻撃を受けているからだ。そしてこの二元論的な構図は主体性と他者性を作りだす。そして、この主体と他者における「差異が劣等を意味するかぎり」*6、他者の烙印を押されたものたちは人間以下の存在となり、私たちがみな人間であるのにも関わらず「ただ他に比べてより死すべき存在」*7となる。人間という概念/言葉は、人間ではないものたちを判定する基準になる。ジェノサイドがこの概念と関与しながら行われていることを踏まえても、私はこの「人間」という言葉を排除や差別のために用いることに反対しなければならない。

ジェノサイドに反対する声は、こうして「人間ではない」として存在する権利を奪われた人たちに対してあげられている。私はそれらの声に賛同する。ある民族が、その民族であるということを理由に抹消されるようにして権力や暴力がはたらくことはあってはいけない。
しかし、それらの声の中には「人間なら」という条件が混じっていることがある。「人間なのに、「ジェノサイドに対して声を上げないことはおかしい」「なぜ悲しむことなく普通にして暮らせるのか」」といった言説を主軸として、人間であるということを理由に「反対の声をあげるべき」と主張する論理だ。
パレスチナで起きていることが日々緊急性を増していることは事実だ。一刻も早い停戦が望まれる。しかしながら、その緊急性は誰かのことを「人間ではない」とする理由にはならない。もしその論理を正当化するのなら、それはパレスチナへ連帯しながらイスラエルのジェノサイドの論理に加担することにもなるだろう。
イスラエルは当初「ユダヤ人(国家)への危機」を口にしながらパレスチナへの攻撃を始めた。そして、今現在、パレスチナ人を「ヒューマンアニマル」と呼んで虐殺している。彼らの中にあるのはパレスチナ人という人間以下の存在であり、存在してはいけない生命だ。彼らがそのように考えるその根底にはこの「人間」という観念とそれに付随して発生する「人間以下」という観念がある。さまざまな事情から声をあげない/あげれない、という判断をしている人間や、彼らの直面する現実を感情的に受け止めることのない人間に対して、「人間ならば〜すべきだ」と主張するのは、パレスチナを攻撃する彼らと同じく人間を「人間」か「人間ではない」かで切り分けることであり、彼らの排斥の原理と相違がない。
これらの理由から、「沈黙」や「共感不能」、普通の生活を送ることを「人間ではない」「おかしい」と糾弾することは、ジェノサイドと同じ論理の範疇ではたらいていると私は考える。そして、「人間」という絶対的に私たちの存在を規定する概念を私たちの民主的な選択に持ち込むということは明確に排除であり差別であると考え、批判する。

繰り返すようだが、私はイスラエル軍によるジェノサイドが倫理的に正しくない、すなわち悪であると判断している。ジェノサイドとそれを支援するイデオロギーや経済的な活動、そして政治的な活動を批判し、それらの行いに反対する。そして、イスラエル軍によるジェノサイドはパレスチナ人の生存権アイデンティティーを深く脅かすもので、即時停戦と早急なライフラインや医療設備、安全な食糧が確保できる環境の整備が必要だと感じている。
そしてこの善悪の判断の原理に基づくと、前述したようなパレスチナ人の生存のための環境整備への支援、そしてイスラエル軍のジェノサイド作戦に道具、資金、イデオロギー的に関与し、加担することに対して圧力をかけそれをやめるように求めること、これらの行為が倫理的に善い行いであると反転させて考えることができる。

白状する。実は私は3ヶ月ほど前から密かにボイコットをしている。セブンイレブンスターバックスマクドナルドへ行かず、ファミマルの商品の購入を避け、イスラエル産の原料が使われた食品の購入を控えている。私は彼らの常習的な利用客だったが、彼らがジェノサイドにイデオロギー的に、あるいは間接的に関与した上で利益を産んでいることが認められたため、それらを停止するように求める手段の一つとして行われていたボイコットを私個人として行うことを決めた。これは先ほどの基準からすれば倫理的に「善い」と判断される判断だ。また他にも、公にはしないものの必要だと考え、それが実行可能であった複数のアクションを個人的に行っている。
しかし、それらの行為の実行をSNS上で報告した上で、「ぜひあなたもそうするように」と呼びかけることはしなかった。それは自分にはできない、と感じていた。どのような理由か説明はできないけれど、それを私は「しない」と判断した。逆にできたのが特にボイコットについて、同居する家族に明かすことだった。私は「善い」とされている行動に対して、さらに自分でどこまでがやってよいと感じるかの判断のフィルターを設けていた。抵抗の運動をしながらそれを拡散することをしないということがその判断を象徴している。

嫌な予感がするので書いておく。これからの私の言説において私が注意するべきなのは、TwitterInstagram上での抵抗運動の拡散は倫理的に悪でありやめるべきだ、という論理に陥らないようにするということだ。それは紛うことなき言論弾圧の思想だろう。私は恐らくなんらかの懸念をSNSでの拡散行為に感じてジェノサイドについての情報の拡散や言及をしなかった。しかしながら、その理由とSNSでの拡散についてを分析しその特徴を指摘して自分の判断の材料にすることと、言論を弾圧することは明確にわける必要がある。私はこの点にかなり細心の注意を払いながらこれからのテキストを書く。

SNSに投稿される情報の特徴について指摘する。
まず、投稿された情報は場所や時間を選ばずに伝達される。すなわち、プライベートな時間や場所であるか公共の空間であるかに関わらず、TwitterInstagramを開いた者は流れてくる情報に触れざるをえない。SNSを開くということの選択だけが与えられ、SNSに流れる情報はそれがどんな時間や場所であるかに全く関係なく表示される。そして情報拡散においては、私的な繋がりの有無は問われることがない。プライベートなアカウントでない限り、面識のある人物であるか否か、親しい人物であるかどうかは関係なく、すべての人に対して同じ熱量や言葉が振る舞われる。
加えて、私たちは目にする情報を目にする前に選ぶことができない。Twitterアルゴリズムによっておすすめされる投稿や自分のフォローするアカウントがツイートしたことが、こちらの選択が全く効かないの状態で流れてくる。かつ、自動的に流れてきて「目にせざるを得なかった」その情報の価値は「いいね」の数や「リポスト」の数によって数量的に可視化されている。そして何より、これは人間によるのだろうが、TwitterInstagramで流れてくる情報は人間の精神状態や行動を規定するだけの力を持っている。
これらの特徴自体について、良い、悪いを判断することはできない。このような特徴があるというだけで、重要なのはこれらの特徴が人間に対してどのように作用するのかということだ。SNSでのジェノサイドについての情報拡散や呼びかけはこのような特徴を持ったプラットフォーム上でなされている。一括りにして話すことは危険なのでまたちまちまと一つずつについて言及する。
まず、駅前などに集まって行われるデモが公共空間において行われるのに対して、SNS上でのデモや情報拡散、呼びかけは、SNSを開くということのみを条件として、公共空間であるか私的空間であるかに関わらず行われる。そしてSNSを覗くとき人はだいたいひとりでいる。投稿されたそれらの情報・呼びかけを受け取るとき、その人がどのような状態でいるのかは投稿する時にはわからない。そしてそれらの情報は一方的な呼びかけとして伝達される。情報を受け取る側がその情報を受け取るか受け取らないかを選ぶことはできず、投稿者からの一方的な矢印として伝達される。だから呼びかけは不意打ちとしてやってくる。その投稿は「いいね」の数などによってその価値が数量的に可視化されている。それは「いいね」というはっきりとしないな概念への参加によって価値づけられているものの、それがタイムラインに流れていてある程度の「いいね」を得ている時、どれほどその情報や呼びかけがが「正しく」、あるいは重大で価値があるのかを担保するように見せることが可能になる。この空間ではどれほどのいいねが押されているかが明確な価値になる。他にも、全くもって知らない人間の投稿か、知人のアカウントの投稿かによってもその投稿の重大さは異なってくることがある。そしてそれらの情報や呼びかけは、その重大さや価値、そして投稿の内容によって見る人間の精神状態や行動に影響を及ぼすことがある。

これらのことから推測できるのは、SNSでのジェノサイドについての情報拡散や呼びかけは、扇動に向いているということである。
前述したように、それらの呼びかけは倫理的に善い行いであり、ジェノサイドという重大な事案に関わっている。それは多くの人の目から明白にわかることだろう。そしてそれら人間の生命に関わる倫理的な行動を呼びかける重大な投稿が選別できず唐突にやってくる時、人間は感情を煽られ、焦る。投稿の内容がもっともであり、それを無視することが直接的に悪と結びつけられやすい状態に置かれるからだ。そしてSNSへの投稿は実際にひとりひとりの人間に懇切丁寧に説明するような手間がかからず、みんなこうしよう、と、一度に大勢の人間に呼びかけることが手軽にできる。これらのことを鑑みると、SNS、とりわけTwitterへの投稿は、このジェノサイドをとめるためのあらゆる活動の拡大を目的とした呼びかけにかなり有効な手段であると言うことができるだろう。それは多くの人をボイコットや署名をはじめとした反戦運動に参加しようという気にさせる。かくいう私もSNSでの情報に接したことがボイコットなどの抵抗運動を始めるという判断の契機になっている。これらの特徴から、Twitterは人間を扇動するのに向いているプラットフォームだと言うことができると考える。

TwitterInstagramが扇動に向いたSNSであるということ自体について私がなにか評価することはない。ただそのような特徴を持っていると考えるだけだ。SNS上での情報拡散にしろ実際的なデモにしろ、これらを行うことは、言論の自由であり、民主主義の権利であり、民衆の手段だ。だから私はそれらを支持するしなんら否定しない。
しかし、前述したように私はSNSでの情報拡散や呼び掛けに加わることはしないという判断をした。それは、これらの特徴について市民としても制作者としても何らかの不安を覚えたからだろう。だからそれを明らかにする必要がある。
重要なのは私がこの不安に対して、「制作者としても」という言葉をあてていることだ。私の市民としてのアイデンティティに癒着する制作者としての生が、扇動に加わることに対して歯止めをかけている。これは私に特有の感覚だろうから一般化されることを望まない。その上で私の判断の話をする。

芸術の「美的体制」においては、作者の感性的形式、作品に内属する感性的形式、受容者の感性的形式の断絶こそが重要視されるのであり、「表象的体制」や「倫理的体制」とは違って、それは作者・作品・受容者のあいだに一定の「距離(distance)」をもたらすものであるとされる。(中略)「制作=行為(faire)」が政治的であるのは、それが作者の意図、作品の形式、受容者の視線という「あらかじめ定められた連関」を「宙吊り」にすることができるからである。言いかえればそれは、現にある支配的な連関の「中性化」にほかならない。*8

現代美術という領域に進むことを決めた時、私は美術が鑑賞者に判断の猶予を与える場であるということに価値を感じていた。上の引用で星野はランシエールを引きながら「あらかじめ定められた連関」を「宙吊り」にすることによって芸術が政治性を含んだものとして可能になることを指摘しているが、これは私が現代美術に触れ始めた頃に抱いた美術の可能性への展望とそう大差ない。作品が展示される場において、あるいは場としての作品が鑑賞者に何かを触れさせるとき、鑑賞者は一度立ち止まって考えることができる。それは作品と鑑賞者のあいだに断絶があるからだろう。そしてその断絶はある一定の方向や原理へと鑑賞者を回収するのではなく、その空間において鑑賞者が何かの判断を下す猶予/余白を設けておくことを可能にする。作家に与えられているのはその空間をどのようにして位置づけるのか、すなわち鑑賞者、作品、作家、そしてさまざまな階層の現実に対してどれほどの距離を持たせるのかを決定する権限だ。星野が指摘する「中性化」はある種理論的なもので、ほんとうに中性的な空間というものは存在しないだろう。しかしながら「中性化」が鑑賞者への猶予を意味するのであれば、それは「判断の猶予」というかたちで可能だ。作品の鑑賞に時間がかかるのは鑑賞者がその空間に与えられた判断の猶予に答えるのに、すなわち鑑賞者個人としての判断に時間がかかるからだ。そしてそのように現実に対して「距離」を持ち、「宙吊り」にされ、鑑賞者にも作家自身にも与えられる判断の猶予や時間に、私は現代美術の場としての可能性を感じている。
繰り返すが、これは一般化されるべき価値観ではない。これは私自身の判断で、これが美術の全てを包摂する形で受け取られることを望まない。私は今までの時間で触れてきた美術と自らが制作してきた作品、そしてさまざまなレベルの現実に触れながらこのような目線を現在持っている、というだけのことで、私はこのようではない制作者の態度についても批判はすることはあるかもしれないが尊重する。そしてこれが時を経て更新されることも当然あるだろう。

そうした時、扇動に向いたSNS上でボイコットや署名などの反戦運動を呼びかけたりそうした投稿を拡散することは、私の場合、作家としてするべきではないと判断される。私は正義のためにも悪のためにも制作をしないし、Twitterを含めた作家が作り出す空間はあくまで全ての判断に対して猶予を与える空間であるべきだと思うからだ。扇動は人間の顔を見ず個別の小さな差異を不可視化するし、作品のようにしてひとりひとりの人間が考える空間や時間を与えない。連帯とはそのような性質を持ったものなのかもしれないしそれが必要とされていることも理解するが、それは私が作家として期待するような空間では決してない。そしてSNSのアカウントが作家のアーカイブとして残されていくことを考えた時、SNSにおける私の投稿は作品の空間を規定するひとつの材料となる。私がSNSでの情報拡散に加わらないのは、それが作品のもたらす空間と明確に異なっており、かつ作家の制作する空間として適当ではないと考えているからだ。

私はこのような理由からSNSでの拡散運動に加わらないが、同じフィールドの人間がそれを行うことを咎めない。作家は自分の社会的な役割について自ら決定する権利があるからだ。だから、上記の記述は全て「私はこうする」であって「皆がこうすべき」ではないことを留意してほしい。
そして、わざわざ私が制作と結びつけながらSNSでの拡散運動に加わらない理由を説明したのは、現代美術のフィールドにおいて、パレスチナへの連帯を表明したりそれを明言する作品を制作することが免罪符や踏み絵として働きはじめることを予感するからである。「芸術をやっているなら今、パレスチナのために連帯し、ジェノサイドに反対しなければならない」「パレスチナのために作品を作らなければならない」といった言説がその代表格だろう。そしてそのこととは別にして、現代美術という領域が、明確に社会的な意義を持たなければ評価されにくい領域になりつつあるということが実感としてある。この動向はSEAを発端とする現代美術の社会的転回以降ずっと指摘されてきたことだろうし、今更なにか言う必要もないのかもしれない。しかし2019年頃から徐々に現代美術の作品に触れる中で、この動向がコロナ禍、ウクライナ侵攻、パレスチナジェノサイドと途切れることなく続く厄災に触発されながら拡大してきたことを私は実感として感じている。証拠は見つけられておらずこれはただの実感だ。そしてジェノサイドが起きた今、急進的にパレスチナへの連帯が求められ始めていることを踏まえ、私はこれを批判ではなくあくまで警戒感として書くことにする。
話を戻すが、「パレスチナへの連帯」や「ジェノサイドへの抗議」が作家のステートメントとして出されることそれ自体が悪いのではない。それぞれの作家の判断で、それを公にする作家もいれば公にしない、あるいは別の考えを持つ作家もいるだろう。しかしながら、前述したように「パレスチナへの連帯」や「ジェノサイドへの抗議」は倫理的に正しい。それが危うさだと私は思う。正しいことに対しては否定が働かないからだ。
日々緊急性を増し、300人以上/日のペースで人間が消されていくのは正常な状態ではないし、ジェノサイドは一刻も早く停止されるべきだ。しかしそのことと、「作家はパレスチナに連帯し、ジェノサイドに抗議しなければならない」という言説の間には大きな飛躍がある。これは先ほど指摘した「人間」という観念が振り翳す排除や差別の構造と変わりない。「作家はパレスチナに連帯し、ジェノサイドに抗議しなければならない」という言説は倫理的な正しさを盾にしながら、「パレスチナへの連帯」や「ジェノサイドへの抗議」を作家の踏み絵に仕立て上げるからだ。このような言説がもたらすのは作家の連帯ではなくむしろ、思考停止であり、作家として生き残っていくための免罪符としての「連帯」だ。やらないよりはいい、と言う人もいるだろう。しかしながら、半ば脅迫/強迫的に行われるこれらは判断によって制作された作品ではなく、イデオロギー的なパフォーマンスに他ならないのではないだろうか。本来、連帯としての制作はこのように行われるものではなかっただろう。鑑賞者をパレスチナとの関係に巻き込み、そこで鑑賞者自身に時間を与える。そして、一度立ち止まって自分の生やできることについて考える。判断する。作品とはこのような経験であり構造物であったはずだ。しかしながら、このような「作家であるならば〜」といった言説は多くの作家を脅迫し、思考停止に陥らせ、その制作や成果を免罪符的にしていくことになる。「私は連帯しましたよ」という保身のための証拠だ。私は、パレスチナへの連帯というステートメントが徐々に、前述したような経験から単なるアイコニックな証拠へと陥っていくことを危惧している(もう手遅れかもしれないが)。制作はそのようであってはいけないと思う。そしてそれはパレスチナへの応答・連帯では全くない。
そして、社会的意義が作品のプレゼンテーションにおいて強く求められ、その価値決定に大きな影響を及ぼすようになっていくことは、私がここで指摘したようなイデオロギー的な作品を増加させることに一役買っていくだろう。注意してほしいのが、私は制作や作品が政治的であることを批判しているのではないということだ。何かをすることが表現であり、それが作品として作り上げられる、すなわち「中性化」され、鑑賞者に判断の猶予を与えているかぎり、制作や作品は政治だ。しかし、作品が鑑賞者を一方向、ひとつの原理に向かわせていく装置となり、政治的な言説や倫理的な「正しさ」を代弁したり表明するものであることは政治的だとは言えない。それはイデオロギー的な扇動に近いだろう。私は現代美術の領域がこのようにして政治的な領域から左派イデオロギー的な領域へと移行していくことを深く危惧している。もしこのような状況が今後加速し、それに対する否定が全く働かないようなことになっていくていくなら、私はこの領域に用はない。二項対立的な構図に囚われ続ける限り、現代美術がこの蟻地獄から抜け出すことはないように思える。現代美術という領域が、「そうではない」規範、「そうではない」選択を作る余地のある空間であってほしい。バトラーは『問題=物質となる身体』の第八章「批判的にクィア」で次のように指摘している。

もし、「クィア」という語が集団的な異議申し立ての場、一連の歴史的考察や未来の想像への出発の場になるべきだとすれば、その場は、現在において決して完全に所有されることなく、先行する語法から切迫した拡張しつつある政治的目的に向けて常に再配置され、曲解され、クィア化される場であり続けねばならない。[…]前もって完全に予想することが決してできないような仕方で運動の輪郭を引き直してきたし、今後も引き直すであろうデモクラシー化する異議申し立てに——それを馴致することなく——場を提供するためには、場を譲ることが必要になることもあるだろう。*9

ここで指摘されているのは、クィアな場がさらにクィア化される余地のある場であることがいかにして必要かということだ。クィアという言葉は、従来異性愛規範的な同性愛嫌悪からつけられた性的マイノリティの蔑称であったが、彼らはそれを反転させ、逆にその言葉(蔑称)を概念として乗っ取った。それは異性愛規範を過剰に演出しながら新しい領域を打ち立てるひとつの道具となってきた概念だろう。しかしそれゆえにバトラーはクィアが規範化/行為遂行され、逆に異性愛規範を増強させるようにはたらくことに警戒している。そして、クィアという概念そのものがクィア化の対象となり続ける必要がある場であると指摘する。バトラー研究者である藤高和輝はこのバトラーのクィアに対する考えについて、「バトラーはクィアを、「名詞」として固定したものではなく、「主体の系譜学的な批判」に開かれた絶えず「動く」ものとして考えている」と指摘し、「それは決して「全体」として閉じない運動体としてあるべきものである」と結論づける*10。私は現代美術があらゆるマイノリティ、アブジェクトされた存在と共にあり、そして規範的な空間に「トラブル」を起こすことのできるひとつの方法としてあることを望んでいる。そしてそのためには、「クィア」を名詞化して用いるのではなく、バトラーや藤高の指摘するように動詞的に「クィアである」ことが必要だと考える。そしてそのようなことを考えた時、現代美術が左派イデオロギー的な価値観を鵜呑みにしながらそれを代弁する装置としてしか機能しないことは好ましくない。それはパレスチナへのジェノサイドに対しても同じである。私は「連帯」や「反対」が規範化されることを望まない。
私は作品という場が政治的に作用するのではなく、作品がこの現実を一度「宙吊り」にし、鑑賞者に判断の機会を与える場であること、すなわち作品から現実に人間が回帰した時に起こることに期待したい。進級展の講評で、人間のことが好きだからこんな作品を作ってるんですよ!と言い切った時のことを思い出している。作品の門が開かれているべきなのは、作品が幾重にも誤読され、制作が更新されていくことを許すべきだからだ。そしてそれは業界化した現代美術にも言える。現代美術が自由を標榜できるのは、現代美術が緊張感を持ちながら世界の範囲を少しだけ広げて見せるからではなかったか。イデオロギーに染まった美術に未来はない。それは新たな排除を生み、表現をプロパガンダに変え、痩せ細らせていく。私は情勢に触発されて変化してきたこの領域がこのような変化を遂げていくということに深い憂慮と危機感を持っているということ、そして、連帯の免罪符として制作される作品や、連帯のために制作される作品を免罪符たらしめる「芸術をやっているならパレスチナに連帯しジェノサイドに反対することを表明するべきだ」「作品を使って連帯/反対をするべきだ」ということを主旨とした言動に懸念を抱いていることを明かしておく。

おおかた、今起こっていることへの危機感や違和感を言語化できた気がしている。そろそろ書くのをやめようと思う。

いくつかの判断がある。
まず、私はTwitterという空間に対する信用をもう置いていない。それは前述したようなTwitterというプラットフォームやユーザーインターフェイスについて、危険であり作家としても市民としても距離を置いておくべきだと考えるからだ。この空間に身を置くことは私の判断を鈍らせることになるだろう。
そして、Twitterをベースとした連帯の感情的な扇動、および「人間であること」を条件に連帯を迫る言動について批判する。これらは明確にイデオロギー的であり、人間の小さな差異や自由な判断を無効化する暴力的な装置となりうるからだ。とりわけ、「いいね」によって情報の価値が規定されるTwitterという空間において、それは実際の言論空間やテキスト自体以上の危険性をはらんでいることを指摘しておく。
また、ボイコットは個人的な範囲で継続する。イスラエルによるジェノサイドは今すぐに止めるべきであり、それを支援するあらゆる経済的・イデオロギー的な活動に反対しているからだ。それを実効的に示す抵抗の手段として私はボイコットを選択する。ボイコットがどの企業やメーカーを対象に、何を目的や理由として行われているのかは自分で確認することを推奨する。そして、ボイコットするかしないかということはあなた自身で判断するべきだ。私はそれを尊重する。
加えて、近くパレスチナの食糧や医療をはじめとしたライフラインの維持や復旧を目的とした事業を行う団体に寄付を行うことを宣言する。
最後に、イスラエルによるジェノサイドとそれを支援する企業や諸国家の判断に反対し、即時停戦を求める。そしてこれらのテキストが、ある種の言論弾圧や芸術に対するノンポリの姿勢であると誤解されないことを願っている。芸術と政治は不可分な存在であり、言論の自由は守られるべきだ。その上で、それらが差別や脅迫とならないようにすることに常に気を張っていなければならない、ということを私は言ってきたつもりだ。私は芸術が選別の作業になっていくのを見るのは悲しい。

*1:高嶋晋一+中川周「「減らす」と「閉じる」」(高嶋晋一+中川周 企画編集『映像なしの映像経験』)

*2:千葉真智子「到来する他者に向けて」(千葉真智子・gallery αM 編『αMプロジェクト2022 判断の尺度』p.12

*3:【随時更新】双方の死者、計2万人超える 終わり見えぬ惨劇 パレスチナ自治区ガザとイスラエルで(写真映像特集) - 日本経済新聞

*4:ジェノサイドの定義 | IGS Interdisciplinary Genocide Studies―ジェノサイド研究

*5:ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』p.44

*6:ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』p.30

*7:ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』p.30

*8:星野太『美学のプラクティス』p.134

*9:ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』p.312

*10:藤高和輝『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』p.299