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切れ端、描かれたもの、オブジェクト

セクシュアリティを関係に導入することは、関係の物語を終わらせることだ。

性的なものは、個人の(彼自身や他者についての)理解可能性を、治癒しえないほどに侵害してもしまうのだ。(p.153)

書名の記載のない引用は全て、レオ・ベルサーニ、アダム・フィリップス『親密性』に依る。

関係の物語が終わらせられるとき(取り返しのつかない侵害を受けるとき)の話をできたことがない。この関係が性的なものであることは無視することができないことであるにもかかわらず、私とあなたというロマンティックな関係はあたかも正常(性的な侵害がされていない)かのように見える。あるいはプラトニックラブ。それと、ベルサーニの主張する「親密性」は、必ず大きく異なっているはずだ。親密さとはプラトニックなこと(性的でないこと)ではないし、一概にセックスではない方法で繋がる(「正常な」関係)ということでもないと思う。むしろ、このセックスが繋いでいる関係が、劇的ではない、あるいは密室であるのではなく野原ということへ。

長く引用。

だが逆説的なことに、ベルサーニが拒絶させたいような闘い、つまり自己性というものを求める闘いも存在するのである。自己性も享楽も存在するのである。発達上の到達点であり、権威的な正当性をそなえた(サディスティックな)自我。あるいはベルサーニが、「正確さという、注意を欠いた習慣」と〔オスカー・〕ワイルドが名ざしたものに陥らず証明しようとする、自己破壊的な(マゾヒスティックな)自我は存在するのである。(p.156)

なんにせよ、あるということを見捨てない、無視しないことは大事だ。何とは言わないがこの記述にはある程度想起することがある。サディストの権威性とマゾヒストの自己破滅性という、欲望の拒絶ではない欲望の仕方は、作品がどのように振る舞うか、あるいはその物質を晒しているかという問題に直結するし、インスタレーションがプレイである時この構図は全面化する。プレイとは振る舞いであり、振る舞いは犯される。ある種身勝手なこの形式がどのようにして拒否されるのかに興味がある。このプレイが取り返しのつかいない方へ向かっていく時、プレイは果たして私とあなたの関係でい続けることが可能だろうか?

続く部分を引用。

ひとつの支配的な形式をほかの形式に置き換えることによってしか、あらたな規範性を規定することはできないのだ。わたしたちが「主体=服従という試みへの抵抗」へと導かれる仕方は、〔やはり〕私たちを何かに服従させてしまうのである。(p.157)

サディズムマゾヒズムの形式はさまざまな規範性に積極的に加担している。その話をすることは、規範性がやってくることの予兆でもあるし予告でもある。私はただあなたとの関係が新しい規範に参加することを望むだけなのです、と言った方がいい。規範的でない形式はない。形式の必要は、規範が私とあなたの都合によって要請されることによって生まれている。これが全く別のものだと言うことの方が困難で、(繰り返しになるが)、規範を増強させるか分散させるかという判断が密室か野原かと言う判断で(本当に「野原」か?)、野原であることが必ずしも規範性と無関係だと言うことはできない。無関係は宣言されない。

ベルサーニの思想にはクィア的な徹底がある。ベルサーニは一貫して自己性の希求を退け、そのためにセクシュアリティを用いる。引用。

殺意に満ちた審判がなされるのは、自己性を過大に神聖視する評価によるのである。こうした自己の過大評価は、人はなぜ自分の発言の真面目さを守るために、殺人さえも犯したがるのかを説明してくれる。だが自己とは実践的な方便である。倫理的理想にまで高められると、自己は暴力を許可するものになってしまう。しかしセクシュアリティが、人々を結びつけながらも、彼らを再び引き離し、自己崩壊的で独我論的な享楽へと追いこむと言う点から見れば社会的に機能不全なものであるとしても、それはまた、非暴力に向けての、私たちの最初の健康によい実践ととらえられることはできないだろうか。(p.158)

長く引用したのは、フィリップスがベルサーニのこの発言をわざわざ長く引いているところに、フィリップスのただならぬ意図を感じたからである。この一節は、ベルサーニが暴力という形式とそれに関わる自己性と暴力の共犯性について指摘する場面だ。乱交だなんだとなにやら物騒な本ではあるものの、ベルサーニが暴力を肯定することはない。「愛はつねに境界侵犯」(p.149)だが、境界審判は暴力ではないということになる。これはどのような事態なのか。

この引用に関連するものとして、ツイートを引用する。

そういえば初めて作ったポートフォリオで、自分の活動を一言でまとめようと思って「不可能なものにずっと惹かれていた」と書いていたし、文学的なものが美術の中で、とりわけインスタレーションにおいてどのように人間を結びつけ、断絶させ、遭難させるかということに強い関心が当初からあった(非公開アカウント・2023年11月17日)

このツイートはまるまるベルサーニの指摘するセクシュアリティの役割についてであったことが判明した。インスタレーションを作家と観客、あるいは作品と観客で語ること自体には超克されるべき規範が内在していることは明白だが、この「インスタレーション」という空間がセクシュアルであるということは、暴力ではない仕方へと、関係性を転落させることである。だからこそ、セクシュアリティの露出としてインスタレーションについて語ることには価値がある。観客には作品との共犯関係とは別の方法が模索されるべきだ。

それとは別に、ベルサーニは偉い、と思ったし、僕がベルサーニに呼応するとすればこの点だろう。セクシュアリティが権威/破滅から、徹底した喪失へ、「復讐ではない欲望の形式」(p.159)へと移行する。これは紛れもなく運動であるはずだし、作品の経験がこのようなものであってほしいと心から願っている。復讐が復讐を生み続けるということをもうわかっているはずだ。復讐が自己性への過度な信奉であるならば、その悪魔的な暴力(p.160)には、鏡を持って制するしかない。

精神分析に独特であると主張しうるのは(中略)、満足した攻撃性の快感の力そのものが、攻撃の主体にとって驚異的だということである。フロイトがいうところでは、誇大化した自我は、自分自身のナルシスティックで刺激的な膨張によって崩壊させられる危険を備えている。(p.116)

ベルサーニが「他者の意志との差異を大事にしようと望む」〔129頁〕と述べていることは、いわゆる他者性であるかぎりの他者や、他者そのものが目的であるような他者との関わりではなく、私たち自身の憎しみとの関わりであるのかもしれない。愛は人称的なものではない。差異はつねにある。(p.162)

人称的なナルシシズムが自殺へと自我を導いていく、あるいはそのように反転する復讐的な癇癪に対しては、差異という憎しみが関係であると言い切る勇気が必要だということだ。そのように言い切ることができた時、人称的な目的を持った愛が、単に差異への憎しみとして、(そしてその憎しみが「大事に」される、すなわち自己性への信奉の棄却が生じる時)、私たちは愛することができる。愛とはそのようにある。

しかし、それは恩寵を受けとることのできた人間の特権的な権利であることも忘れるべきではない。

「愛される者は、愛されることの結果として愛する者になる」。(p.174)

非人称的な作品を作りたいと思う。作品が単に見られるものであってくれなくては困る、というのはそのためだ。作品が僕とあなたとの関係であってほしくない。作品はあなたにとって僕という人称ではなく、ただエクリチュールとして、環境として、非人称的であってほしい。私たちを愛しているから。勝手に愛せる。無味乾燥としている中に…(コンセプチュアルアートや日常を連想する)

わたしたちは——これはベルサーニの表現ではないが——死にいたるほどの敵対関係を想定しない人々のあいだで発生可能なものを記述する、あらたな語彙や方法を必要とするのではないか。(p.170)

でも、この論理はおそらくまだ不正確で、誤りを含んでいる。非人称性と物質性や産出能力が結びつくものであるとき、愛はホモフォビアな感性を含有することになるからだ。だから、もうちょっと読み進めて手解きを受けたい。

この引用はおそらく『親密性』の中でも重要な部分である。「死にいたるほどの敵対関係を想定しない人々のあいだで発生可能なもの」、まさにその領域へと親密性の照準は合わせられる。私とあなたとの関係が、権威的/自己破滅的であるというこの規範性から脱出し、愛と呼ばれるものが特別ではないようにしてあり、それが復讐ではないこと。それはまさにこの「敵対」ではない方法の関係である。

そしてまた、母は、乳児の潜在的存在、すなわち乳児が成長する過程で自分になることに「協調する者」であると記述される。ベルサーニが「潜在的な存在」や「可能的な存在」と名づけるものは、可能的なものがつねに未知な(つまり予言しえない)カテゴリーとみなされるかぎり、まさにこの種の愛の対象である。つまり、変化は自己性の強化や再発見、つまり発達などとしてではなく、むしろあらたなものを生み出すことだとされるのである。(p.175)

母への愛は失われたものの回復を望むことだと思われがちだがそうではない。母を愛することとは、「全能的ナルシシズム」が失敗した段階において、その母を愛するということである。母性愛と近親相姦はそのようにして全く別の位相にある。そして、このような形の愛が、「死にいたるほどの敵対関係を想定しない人々のあいだで発生可能なもの」へと接続されていくはずだ。本書の背表紙の帯には「性愛の彼方へ」とある。「性愛の彼方」とはこのようにしてある。失われた母のフラストレーション、その差異を、憎むべきものとしてではなく…引用。

ベルサーニは次のように記述する。「もしわたしたちが、この非人称的なナルシシズムによって他者と関係することができるならば、他者(彼らの心理学的個人性)との差異とは、他者とわかちもっている同一性という、より深いもの(完全には現実化されないし、みいだされることもない)のたんなる外皮にすぎない者になる」〔144頁〕。(p.176)

憎むべきものとしてではなく、現実な同一性に重なるものとして見る時、そのフラストレーションは「親近感」へと転換される。その「親近感」とは、単に似ているということではない。それは、あなたが現実に、こうしているということそのものへのこの上ない祝福である。絶望ではない。あなたが生きているということ、あるいは生きていたこと、そのあなたという存在に対する絶対的な抱擁であり、それが関係の絶滅における希望である。それは、この差異という耐え難きフラストレーションを耐えることによってしかもたらされない。そして、その先にある喪失が、あなたに祝福を与えるのだ。前述のように、この「親近感」は無条件に与えられるものでありながら、その機会の有無によって得られるか得られないかが決定されている。引用。

精神分析的な関係である非人称的なナルシシズムとは、いずれにせよ、暴力に訴えずにフラストレーションに耐える訓練なのである。(p.179)

それがこの訓練である。暴力に逃げることなく、この差異というフラストレーションに耐え、それを超克し、憎悪、復讐から「親近感」へと転換させていくこと。それが、暴力(権力/自己破滅)ではない他者との関係の仕方であり、そのような倫理である。

長い引用。

ベアバッキングとは、どのようなものであれ——わたしの見方からもっと現実的に述べるならば——非人称的な変容というこのプロセスの何かを復元し、再創造するという試みである。その(世俗的な)現実主義は、わたしたちの成長と発達の理想化は——親密な関係性といわれるものが個人の発達に役だたないものであっても——実際にはどこにもない場所に向かっていくという事実を覆い隠す試みであることを明らかにしてしまう。子どもであれ誰であれ、わたしたちは破滅に向かって成長している。(p.186)

今は沈黙させられそうになるこの情動に耐えることしかできない。とりあえず書く。実は、ベルサーニの主張する親密性は恐ろしいものではない。上の引用に記述されている通り、ある理想化(これは自己性の増強とも強く関係しているだろう)は「実際にはどこにもない場所に向かっていくという事実を覆い隠す試み」なのだ。もし、人称的なナルシシズムが誰かと誰か、あるいは観客と作品、もっと言えば観客と作者の間に敷かれているとしても、その物語的な関係(これをロマンスと呼ぶ)が実は非人称的にあてもなく更新され続けているということは変わりのない事実なのだ。ベルサーニは、誤魔化さないでほしいと私たちに懇願している。誤魔化しがあり、そしてそれが暴力を肯定するものであるということはとても悲しいことだ。運命は悲劇でも成就でもない。運命は差延とその分有のうちにある。それはロマンスを棄却し、この関係が向かっていく非暴力的な破滅と無味乾燥とした愛を祝福として歓喜しながら享受することだ。

セクシュアリティを関係に導入することは、関係の物語を終わらせることだ。

という直感的に書いた言葉はおおよそ誤りではないだろう。作品と観客が自己性的な暴力の共犯関係に置かれるのではないとき、そこに侵入したセクシュアリティインスタレーションの空間をある部屋から解放する。それはホワイトキューブではないインスタレーションのことを指すのではない、ある部屋とはそのような意味ではない、ある部屋とはこの関係の特別さである。特別さはあるのではない。特別さはつねに届かない。特別さは一緒に作り続けていくものだ。部屋という内在的な特異性ではなく、散乱した現実の野原に、隣で一緒に佇んでいることが、観客に、作品に、この関係に可能だろうか。それが関係の物語の終わりであっても関係が終わることはない。そう強く言える。無関係なものは宣言されることがないと言った。我々の同一性もまた、宣言されることがない。それは我々とは全く関係のないところからやってくる恩寵なのだ。作品は相変わらずこの現実の特異点である。作品は恩寵を与えるのではない。恩寵を通すのだ。それが到来する時、作品と観客の関係は混乱する。関係は自己性の捕捉をかいくぐってこの場所を晒す。その時インスタレーションはプレイではない関係を私たちに見せてくれるはずだ。そしてその時ある関係が、宣言されずとも私たちを強く結びつける。

「愛は境界侵犯である」と前に書いている。境界侵犯が暴力でないのは、それが暴力を棄却し、フラストレーションに耐えた先にある差異という境界を無効化する同一性に宿っているからだ。プレイでないインスタレーション、共犯ではない関係としての親密性はこのようにして非人称的ナルシシズムによる愛を可能にする。いや、絶え間なく可能にし続ける。作品がそのような場所であってほしい、そのための、これは杭である。

最初の問いにもどってみよう。ベアバッキングのプリズムをとおしてみると、親密性のあたらしい形式である非人称的なナルシシズムとは、何から人を自由にするのか。それは何のためのものなのか。もし人間の関係性が、自我同一性の共謀とは異なったものであり、こうした試みが自己性の強化ではなくその解体にあるならば、わたしたちの生はどうすればよりよいものになるのだろうか。そして、もっと緊急の問いをたてれば、近年に増大する暴力の残虐性を踏まえて、こうした試みを、今や人間的本性とかさなりあうきわめて恐るべき暴力の原因ではなく、むしろそれを軽減させるものとして追求するにはどうしたらよいのだろうか。(p.191)

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